東京農業大学の歴史の中の東京農業大学全学応援団

 

 東京農業大学は本年、平成十八年一一五年を迎えた。この一一五年間で培われた伝統とブランド力を貴重な財産として大切にしていきたい。一一五年を概観し、本年七十五周年を数えることになった東京農業大学全学応援団の歴史的位置づけを再確認したい。

 一〇〇周年を迎えた平成三年、松田藤四郎学長は「教育理念」を起草し、教授会が承認した。その内容は次のとおりで、一〇〇年を期にこれからの一〇〇年に向けた研究教育意識の統一を図ったものといってよい。

 「本学は明治二十四年、時の英傑榎本武揚によって創設されたが、建学の理念を築いたのは、明治三十年から昭和二年までの三十年間、心血を注いで本学を育成したわが国近代農学の鼻祖といわれる初代学長横井時敬である。

 横井時敬は農学の研究教育を通して農業、農業関連産業および農村文化、農村社会の発展に寄与する人材の育成をめざして、その教育研究の理念を「実学主義」に置いた。また、人格の陶冶を質実剛健、独立不覊、自彊不息の言葉で表現し、「気骨と主体性」を持った紳士の育成をめざした。

 創立一〇〇周年を迎えるにあたり、我々は横井精神を再認識し、発展させねばならない。本学の使命は将来とも食糧、環境、エネルギー、健康など人間生活の問題解決と、それらに関連する産業の発展に対し、農学およびその周辺分野の学術の「研究教育」を通じて貢献することである。そのためには大学は研究が生命であることを自覚し、旺盛な研究活動を世界的視野で展開することである。研究は実学主義にもとづく高水準の基礎研究および応用研究に力点を置かねばならない。

 本学はまた国際的な研究教育機関としての機能を高めると共に、本学が建学以来意図してきた国際性豊かな人材の育成を図らねばならない」

 一〇〇年の節目をどう捉えたかを知る一齣である。 

 産声を上げた一ページから節目を概観してみよう。 

 

 

◯ 明治二十四年(一八九一)三月六日、東京農業大学の前身育英黌農業科は、東京市麹町飯田河岸第四の三(現在のJR中央線飯田橋駅構内・飯田橋駅東口に「東京農業大学開校の地」の標柱が立っている)に、徳川育英会によって設立された。設立の当初は農業科と商業科、次いで普通科が加えられたが、商業科と普通科は生徒の応募が少なく、経営困難で廃科となり、農業科だけが存続していったのである。

◯ 明治二十五年、甲部鉄道(現在のJR中央線)が、新宿―飯田橋間の開通工事に着手するため、育英學農業科は移転を要請された。育英黌農業科は実習教育のため農場を必要としていたので、これを機会に東京小石川区(現文京区)大塚窪町二五番地に移転した。そして明治二十五年十月二十三日、育英黌分黌農業科として更生することになった。

◯ 明治二十六年七月二十一日、東京農学校は第一回卒業式を行った。卒業生十八名。十一月、最初の「農友会」を結成し、伊庭想太郎を会長に選んだ。

◯ 明治三十一年一月十六日、榎本武揚は東京農学校のすべてを大日本農会に移管する。横井時敬が大日本農会附属東京農学校の管理に当たることになった。

◯ 明治三十一年九月九日、東京を襲った台風のため、全校舎が倒壊した。新しい土地への移転が検討された。同年十月九日、東京農学校は東京府豊玉郡渋谷村常盤松一○一番地所在の御料地内に校舎建築移転。東京農学校は、近代日本農業の源泉地ともいえる常盤松台地に、その基盤を定め、やがて東京農業大学に発展する根をおろし、昭和二十年の終戦まで四十五年間存続したのである。

◯ 明治三十四年七月十五日、校名を大日本農会附属私立東京高等農学校にと改称した。

◯ 明治三十六年八月二十一日、専門学校令による大日本農会附属私立東京高等農学校に認定された。生徒定員総数は一五〇名。三十八年四月には二〇〇名、三十九年六月には三〇〇名に増加した。

◯ 明治四十一年二月十五日、大日本農会設立の私立東京高等農学校と改称した。

* 明治年代の東京高等農学校時代、本学にはまだ一定の形をなした応援団は存在せず、校内運動会の対級競技などに、それぞれのクラス有志が応援した。また対外試合には、全学生が団結し、大挙して駆けつけ盛んに応援したものである。当時は、野球、相撲、陸上競技などのへ応援がおもであった。

◯ 明治四十四年十一月十六日、専門学校令による大日本農会設立の私立東京農業大学と改称した。定員総数七〇〇名となった。校長横井時敬は初代学長に就任した。

* 大正二年、対外試合で統制をとるため、応援団長に三浦肆玖楼が推された。三浦は後年、校友初の学長となったが、学生時代から情熱的で仲間に押されてリーダーとなる素質を持っていた。

 三浦団長は試合の日時が確定すると、その日の授業を担当教授に休講にしてもらい、教員にも応援の参加を要請した。そして試合当日は応援に参加する学生を校庭に集めて、横井時敬学長の激励を受けてから目的地に向かった。当時の応援風景たるや、向こう鉢巻きで筵旗をかかげ、朴歯をうちならして絶叫するといったバンカラぶりで、応援席は怒濤逆巻く勢いで相手を圧倒した。

* 大正四年十一月二日、東京帝国大学秋期陸上運動会主催の府下専門学校招待レースで、舟山穂平が優勝し、第一回の東京帝大優勝旗を獲得した。選手と優勝旗を囲んで、応援の学生は、青山五丁目の横井時敬宅に集結し優勝の報告をした。そして横井学長の音頭で万歳三唱をした。このときが対抗レースで本学が優勝した最初であった。

◯ 大正八年(一九一九)六月二十一日、文部省令により私立の二字を除いて東京農業大学と呼称することになった。

* 大正十二年「青山ほとり」誕生。高等科三年在学中の市川正輝作。当時の学生気質に一致し、学生に広く愛唱され、後に応援歌として認識された。

◯ 大正十四年五月十八日、大日本農会から独立し、財団法人東京農業大学を設置。大学令によるわが国唯一の農業単科大学(大学部・大学予科・専門部農学科・専門部農芸化学科)の誕生である。

 同年十月二十四日、常盤松校舎裏の広場で昇格祝賀会を挙行した。この時の感慨を横井時敬は「農友」第五二号に書いている。

  「二十有余年の跡を顧みれば余は果たして何をなしつつあったか、茫として夢の如く感ずるのみである。如何 

 にして渺たる一農業学校を、この堂々たる大学にまで進むることが出来たか。大塚窪町に建てられたる一草屋の 

 バラックより、今日この常盤松の御料地に移りて、大審院の人民控所の旧建物を購ひて、新建築として打ち立て、 

 僅々五、六十名の学生を収容せるより、今日三千余坪の土地は明き処なきまでに建物を以て満たされ、ここに八 

 百を超ゆる学生を収容するに至った。その建物の坪数丈にしても、既に隔世の感ある位の事でない。之を加ふる 

 に十町歩の実習地の経営を以てする。余は如何にしてここまで我々の学校の新運と相伴ふて来ることが出来たか、 

 是れ併し乍ら帝室の深き恩恵は勿論、大日本農会総裁宮殿下の御威徳、時代の新運、校友学生の努力、大方の同 

 情の然らしむる所と信じなければならぬ。余は是において始めて鈍、根より転じて、「運」なるものの支配に思い 

 至るを禁じ得ないのである」

  この文中、横井時敬は「我々の学校」という言葉を使った。これこそ、大学、校友、学生が結束した三位一体 

 の学校を意味する。

* 大正十五年九月二十五日、東京農業大学「学歌」「常磐の松風みどりに吹きて」を制定し発表する。 

 作詞は尾上紫舟文学博士に、作曲は日本交響管弦楽会指揮者山田耕筰氏に依頼した。

◯ 大正十五年九月二十八日、「農大新聞」を創刊した。

◯ 昭和二年(一九二七)十一月十日、吉川祐輝が第二代学長に就任した。

*  昭和六年六月十九日、全学生を網羅する「東京農業大学全学学生応援団」設立。

 当日開催された斯友会総会において「東京農業大学全学学生応援団」が設立され、団則が制定された。

 農大の応援団は、毎年の関東学生相撲大会が終わればその存在を認められないほど淋しくなり、相撲大会に備   える一時的の応援団としか思えない状態にあった。且つ農大応援団と称するも、それは予科、専門部の学生に限られ、形式的にも何等の統制もなく組織だっていなかった。

 一方、軍事教育、学校教練の華やかだった、昭和五、六年わが母校でも学生間の思想問題が多く、左右が対立し同窓相喰むことも再々であった。一志会を中心とする皇室中心勢力と読書会を中心とする革新勢力の暗闘はかなり激しいものがあった。

 そこで、熱血の有志達が「何とか農大学園を一本化したい」と行動し、農大学生運動の中心母体となるような、 

「全学生を網羅する応援団」の設立を提案したものである。名実ともに兼ね備わった、農大学生を代表する立派な団体行動のとれる応援団であるために、農大応援団を代表する「応援団旗」を日本一立派なものにし、農大学生の心の拠り所にすることにした。

 旗は、農大のスクールカラーに白地で鶏を染め抜いて、羽二重の上等生地で創成した。

 旗竿は、いかに軍閥華やかなりし頃とはいえ、「天皇皇后両陛下を御警衛申し上げ、あるいは皇室の公式儀式に 

儀仗申し上げた近衛師団、近衛騎兵の鎗を」農大応援団の旗竿にと、恐る恐る払い下げ方を陸軍省に申請した。 

 これは前代未聞のことであったが、陸軍大臣の英断により下付された。陸軍大臣から激賞され、陸軍省発行パン 

フレット「つわもの」に報道され農大一同は面目を施した。 

* 昭和六年十一月十一日、東京農業大学全学応援団「団旗制定式」が挙行された。旧横井記念講堂(青山)で全学生参集して、「団旗制定式」が挙行された。吉川祐輝学長より吉條久孝初代団長に団旗が授与され、「本旗をもって、わが農大の応援団旗といたします」と力強く制定した時は万雷の拍手を受けた。日本全国に応援団は数多いが、近衛騎兵の鎗柄を旗竿に頂いている名誉と光栄に輝いているのは、実にわが農大応援団だけである。

* 昭和六年十一月二十七日 農大の提唱で 応援団連盟の組織成る。当時、東都六大学野球連盟が結成され、「農大、中央大、専修大、日本大、國學院大、学習院大」が参加した。これに伴い各大学応援団長に呼びかけて、応援団連盟を結成した。これが、後の愛国学生連盟の結成にも拍車をかける動機にもなった。

* 昭和七年一月斯友会総会で、応援団則の改訂があり、応援団費年額五十銭を、授業料と同時納入が実現された。校風刷新の一助となったことは高く評価されてもよい。

* 昭和七年五月七、八日、「青山ほとり」に大根を持って応援。関東学生相撲連盟大会が国技館に於いて華々しく開かれた。農大応援団は、白紋付き姿の団長人参一本を片手にやおら立ち上がり、人参一振り、三百の農大軍大根を片手に「お嫁に行くなら」の蛮声をはり上げ場内を圧した。

* 昭和七年六月、学歌、応援歌のレコード吹き込み実現。五月三十日の斯友会総会で決定した。

 伴奏は、我が国最上の吹奏楽隊である陸軍戸山学校軍楽隊に依頼し、早速、横井講堂で演奏した。軍楽隊は二十五名による其の美しき旋律は満場の学生を恍惚させた。

 吹き込みは、応援団一同による合唱との具合も非常にうまくでき、現存する大学校歌レコード中、随一のものが出来た。学歌(常磐の松風)と共に、裏面には応援歌(あゝ若人の血は躍り)、農大エール(勝って兜の緒をしめよ)が吹き込まれた。本レコードは、一枚一円二十銭の廉価で予約販売することになった

* 昭和十二年 学徒出陣壮行会。確固たる基礎の上に立ち多方面に活動する応援団は、従来の活動以外に昭和十二年七月七日の日中戦争勃発からは、学内に出征者がある場合など必要に応じ出動し、その機能を発揮した。

* 昭和十二年十二月一日、応援団新団則を制定。この団則は時代の推移に応じて、団費の増額、幹事選出人員、相談役、監督の設置など一部の条項が改訂された。

*昭和九年四月十六日、三百数十の希望に輝く若人を迎え、厳粛裡に入学式並びに入団式が挙行された。

*昭和十二年四月二十三日、応援団主催主将会議。各運動部および研究団体の主将、代表三十四名が集まり、主将会議が開催された。各部のスケジュール並びに最近の活動報告があり、また各部代表から希望と決意が述べられ懇 

談に入った。

◯ 昭和十四年五月十五日、佐藤寛治が第三代学長に就任した。

◯ 昭和十六年十月二十六日、第三十二回運動会を元住吉グランドで開催したが、この年から運動会の名称を収穫祭と改めた。

◯ 昭和二十年五月二十四日夜、米軍機B29の爆撃で、横井講堂、図書館書庫などの一部を残して灰燼に帰した。

この空襲により、初代団旗も焼失したが、旗竿だけは残り現存している。

 常盤松御料地に移って以来四十七年間、営々として築き上げてきた大学の機能は、一夜の空襲によって壊滅した 

 のである。

◯ 昭和二十年九月十五日、陸軍機甲整備学校地の一部(現在の第一高等学校地域)の使用許可を受ける。ここに本学の世田谷時代を画することとなった。

◯ 昭和二十一年三月三十一日、千葉県茂原市に千葉農学部を設置した。

* 昭和二十一年三月、応援団、荒廃した母校の復興に立ち上がる。第一回の学生集会を開催し、「荒廃した跡地を我々のキャンパスとして整備しよう」との提案を可決。早速、その作業のため各科各学年の委員を選出し、さらに各科毎に責任者を決め、そして全委員の選挙で団長を選出した。(これが戦後、農大に一時的であるが複数の団長が誕生した所以である)        

 食糧の困難な時代、学生は空腹に耐え、授業を投げ打って校庭各所に築かれていた防空壕の穴埋めや、校庭の整地に汗まみれ泥まみれになって奮闘した。

* 昭和二十一年十月、運動場の整備も終わり、応援団は戦後初めての収穫祭の準備に入った。この収穫祭は、終戦直後においては不可能と思われるほど大規模なもので、都内宣伝ストームなども企画されていた。

 ときは連合国軍占領下で、五人以上の集会の禁止令があり、収穫祭の宣伝許可を得るため警視庁に申請したが、 

なかなか埒があかず却下されしまった。そこで連合国軍総司令部(GHQ)へ陳情した。交渉は難航したが、連日朝から夕刻に至るまでの再三にわたる折衝の結果、ついに銀座、新橋、新宿、渋谷、三軒茶屋での許可を得ることが出来た。このマッカーサー元帥直筆の許可証は、応援団活動の貴重な資料として、その後の収穫祭文化展応援団ブースに展示されていた。

* 昭和二十三年二月十六日、全学生を網羅する統一応援団「全学応援団」の復活。戦後の応援団は長期間専門部だけのものとして独特の封建臭の箱の中に納まっていたが、校内民主化の時期と共に全学的な応援団へとの興論がたかまり、昨年十一月全学的応援団の構想が具体化され、二月十六日、学部、専門部、予科を交えた三者一体の全 

学的応援団が結成され、新役員が選出された。

* 全学応援団誕生に伴い新団旗を作成

 従来の応援団から、「全学応援団」の文字を加えた新しい団旗が出来上がった。これは現在の団旗の原型となった。縦八尺五寸八分(二・六m)横九尺九寸(三m)松葉緑の中央に農大を、左側下部に「東京農業大学全学応援団」を白地で染め抜いた。旗竿は全長十五尺八寸四分(四・八m)黒塗り樫材三段繋ぎである。

* 昭和二十四年六月一日、「東都大学応援団連盟」結成。東都大学野球連盟の一部六校が集まり東都大学応援団連盟を結成し、盛大に記念式典を行った。東京農大を先頭に宮城前を行進した。加盟校、東京農大、専修大、日本大、 

中央大、国学院大、駒沢大。

◯ 昭和二十五年四月一日、東京農業大学第一高等学校(東京都世田谷区)の設立が認可される。

◯ 昭和二十五年四月一日、東京農業大学短期大学を開校した。

◯ 昭和二十六年三月五日、学校法人東京農業大学が設置認可される。

◯ 昭和二十六年四月一日、東京農業大学父兄会(現在の東京農業大学教育後援会)が設立された。

* 昭和二十六年 「全日本学生応援団連盟」結成。東都大学応援団連盟の総会にて、全国の大学応援団を統合し、全日本学生応援団連盟を結成するよう提唱され、賛同を得た次の十四校にて発足した。

  東都大学応援団練習連盟加盟校、関西六大学応援団連盟加盟校、東北学院大学、西南学院大学。

* 昭和二十八年十一月十三日、全學應援團ブラスバンド部発足。ブラスバンドの所属について、五者管理委員会が開かれ、応援団所属条件として七項目の規約を確認し、一年にわたって論議されたブラスバンド部は、応援団の一部として正式に発足することになった。

* 昭和二十八年十一月、第三十一代学生横綱誕生。第三十一回全日本学生相撲選手権大会において、福田芳郎が個人戦優勝し、第三十一代学生横綱のタイトルを獲得した。

* 昭和二十九年一月二十日、「全學應援團でOB会」結成。戦後の応援団復活に尽力した先輩方の呼び掛けで、戦後特に、荒廃した学生の気風を正しく方向づける意味から、今後の応援団活動を活発にし、対外的な面にも縦横の連絡を密にする目的をもって発足した。

◯ 昭和三十年六月二十一日、千葉三郎が第四代学長に就任した。

* 昭和三十年六月十九日、応援コンクール優勝。第三十四回東日本学生相撲選手権大会に併設された、応援コンクールで優勝する。応援コンクールでは、昭和二十七年三位となり以後優勝争いも小差で次点に甘んじていたが、遂に優勝を勝ち取った。これを機に昭和三十年代は、八回の優勝をはじめ数々の栄誉に輝き、農大応援団の名声を 

高めた。特に「青山ほとり」の大根おどりに人気が集中した。

◯ 昭和三十四年六月十二日、三浦肆玖楼が第五代学長に就任した。

◯ 昭和三十五年九月一日、東京農業大学生活協同組合が法人として営業を開始した。

* 昭和三十五年十一月、第三十八代学生横綱誕生。第三十八回全日本学生相撲選手権大会において、内田勝男が個人戦優勝し、第三十八代学生横綱のタイトルを獲得した。内田勝男は、後に大関豊山となり引退後、日本相撲協会の時津風理事長となった。

◯ 昭和三十六年十月五日、内藤敬が第六代学長に就任した。

◯ 昭和三十七年二月二十二日、東京農業大学第二高等学校(群馬県高崎市)の設立が認可される。

* 昭和三十七年十月二十五日、大学当局「覚え書き」、農友会及び応援団の位置づけ表明する。

 「農友会及び応援団は大学の特別教育活動のための機関であり、学生団体ではないので、学生団体としてこれを統合あるいは脱退することは認めない。」

 農大における応援団は、他校のような運動競技応援一辺倒ではなく、「東京農業大学全学応援団」とその名のごとく全学生によって組織されている自治団体であり、運動競技の応援は無論のこと、学術部門に関する応援も行い、その他学園における学生の事柄について応援団独自の立場により、それを援助、協力、応援し日夜農大発展のために努めて、全学組織の名を遺憾なく発揮している。

* 昭和三十六年応援団テレビ初出演。NHK「それは私です」木村義紀が回答者で出演、木村義紀と宮崎健三のリーダーで「どじょうすくい」を演じた。翌年、NHK「スポーツクイズ」に出演し、青山ほとりを演じた。

 これが大変な反響を呼び、以後民放テレビ局を含め出演、取材が増加した。また、全国の高校から野球の応援指導や、警視庁、消防庁はじめ各種団体から運動会の応援指導などの依頼が殺到した。

* 昭和三十六年 塚原週吾顧問、応援団の行動理論として、団訓七つの宣言を掲示。

 一、敬 愛 一、勇 気 一、忍 耐 一、礼 節 一、規 律 一、闘 志 一、団 結

* 昭和三十七年、吹奏楽部第一回演奏会を世田谷区民会館で開催する。以後、定期演奏会として毎年開催している。     

* 昭和三十八年、高校の応援指導始まる。東京農大二高はじめ、新発田農高、益田産高などへ、三人から五人のチームを組み出張し、野球試合の応援指導をした。

* 昭和三十九年十一月、相撲部全国制覇。第四十二回全日本学生相撲選手権大会において、団体優勝を成し遂げた。応援団は、大阪府立体育館から宗右衛門町の宿舎まで、団旗を先頭に二列縦隊で優勝パレードを行った。

* 昭和四十年六月十一日「応援団問題」全学投票で現状維持に決定する。五月のワンダーフォーゲル部新人訓練合宿における事件が拡大し、応援団組織是非論に発展する。六月二日の第四回学生大会の決議で、応援団を現在の全学組織で行うか、クラブにするかを全学生の投票で決めることになった。全学投票は、十日、十一日に行われ、 

その開票結果二千百十四票対千三百三十七票で現在のまま全学組織で続けることが決定された。

* 昭和四十年十二月、「日の丸敬愛運動」展開。第十四回全日本学生応援団聯盟記念祭において、「日の丸敬愛運動」アピールのため、日の丸を先頭に連盟祭参加校は、団旗を掲げ九段会館から国立競技場まで大パレードを行った。

◯ 昭和四十一年一月十二日、アメリカ合衆国ミシガン州立大学との間に「交流に関する覚書」を交換し、姉妹校関係を結んだ。国際化の第一歩を踏み出したのである。現在、本学の姉妹校戦略は一国一大学主義を原則に次の十八大学に及んでいる。

  タイ国・カセサート大学、カナダ・ブリテッシュコロンビア大学、中国・中国農業大学、台湾・国立中興大学、  

  インドネシア・ボゴール農科大学、ペルー・ラモリーナ国立農業大学、モンゴル・モンゴル国立農業大学、フ 

  ィリピン・フィリピン大学ロスバニョス校、マレーシア・マレーシアプトラ大学、韓国・慶北大学校、イスラ 

エル・ヘブライ大学、ベトナム・ハノイ農業大学、ブラジル・サンパウロ大学、メキシコチアビンゴ自治大学、ウクライナ・ウクライナ国立農業大学、オランダ・ワーヘニンゲン大学、フランス・農業グランデコール コンソーシアム(5大学連合)

* 昭和四十一年十二月、第十五回全日本学生応援団連盟本部校を務める。聯盟記念祭行事として、応援団のパレードと親睦体育祭を企画した。参加大学は団旗を先頭に、世田谷大橋公園から駒沢公園陸上競技場まで、国道二四六をパレードし、競技場で各校対抗の体育祭、応援合戦が行なわれた。 

* 昭和四十二年十一月、相撲部全国制覇。第四十五回全日本学生相撲選手権大会において、団体優勝を成し遂げた。表彰式が終わると、応援団は大阪府立体育館の観衆を前に歓喜の大根おどりを行った。

* 昭和四十三年、学園紛争拡大。七十年安保・学費値上げ問題で、反体制派の学生運動が激化し全国百十五大学で学園紛争が勃発した。農大においても、少数の過激派が他校からの支援のもと、立て看板を連立し学内を混乱に陥れようと目立った運動を展開した。こうした運動を阻止し学内を正常化するため、応援団幹部を中心に相撲部、

ラグビー部、一般学生有志をもって一志会を結成、学内の警備を強化し、定期巡回を始めた。その後、数年間小競り合いがあり負傷者も出たが、大事に至らなかった。

◯ 昭和四十六年十月二十七日、平林忠が第七代学長に就任した。

* 昭和四十九年一月二日、東京箱根往復駅伝で往路初優勝・初参加から五十三年振り。第五十回記念大会二十校参加。 

 一区から岩瀬哲治、服部誠、山本吉光、佐藤誠、壱岐利光のメンバーで、二位日大に三分三十六秒の差をつけ往

路優勝した。一区十三位と出遅れたが、二区服部が前代未聞の十二人抜きの快走、区間二位を三分余抑えるミラクル大逆転。三区山本も連続区間賞。

◯ 昭和五十年六月一日、東京農業大学成人学校の設立が認可される。

◯ 昭和五十年七月五日、鈴木隆雄が第八代学長に就任した。

* 昭和五十年、「東京農業大学応援歌集・ああ若き情熱の思いで」LPレコード制作発行。

 学歌をはじめ数々の応援歌を後世に正しく伝えるため作成した。歌・太鼓は応援団幹事一同による。

* 昭和五十二年一月三日、東京箱根往復駅伝で、初参加以来最高の総合二位に躍進する。

 往路で、二区山本吉光、四区山岡英樹が区間賞の快走で往路二位。復路は、アンカー岩瀬哲治主将が区間新記録の快走で、見えない敵を猛烈に追い上げたが、五秒の差で惜しくも往路優勝が成らなかった。総合優勝日体大は、初日の貯金を救われ二分五十四秒後にゴールした。

* 昭和五十二年、 全学応援団バトントワラー部設立。昭和四十七年から吹奏楽部内でバトントワラーとして活躍していた女子部員の、地道な努力が実を結び晴れて、応援団バトントワラー部として独立した。

◯ 昭和六十年二月十二日、東京農業大学第三高等学校(埼玉県松山市)の設立が認可される。

◯ 昭和六十二年七月五日、松田藤四郎教授が第九代学長に就任した。

◯ 昭和六十二年十二月二十三日、東京情報大学(千葉市)の設立が文部省により認可され、昭和六十三年四月より開学した。

◯ 昭和六十三年十二月二十二日、東京農業大学生物産業学部(北海道網走市)の設立が文部省により認可され、平成元年四月より開学した。

* 平成二年、バトントワラー部改め、チアリーダー部に名称変更。

* 平成二年、全学応援団オホーツク支部設立・オホーツク支部団旗作成。

◯ 平成三年五月十八日、東京農業大学創立百周年記念式典・祝賀会を東京プリンスホテルで開催した。

* 平成三年十二月十五日、東京農業大学創立百周年・全学応援団記念祭を渋谷公会堂で開催した。

* 平成三年十二月、第七十代学生横綱誕生。第七十回全日本学生相撲選手権大会において、伊藤辰博が個人戦優勝し、第七十代学生横綱のタイトルを獲得した。 

  

* 平成三年十二月、92全日本大学女子駅伝対抗選手権、初優勝。89年大会に初参加し、準優勝してから着実に戦力アップされ、遂に初優勝を成し遂げた。大阪長居競技場。

* 平成三年、ボクシング部、佐々木忠弘バルセロナ五輪出場。

     全日本大学ホッケーリーグ王座決定戦 優勝。

     全日本男子ホッケー選手権、十二年振りの優勝。

     全日本学生空手道選手権大会、団体優勝。

* 平成五年、全日本大学ボクシング王座決定戦、優勝。

* 平成七年、東京情報大学学園祭に参加しリーダー公開を演じる。

◯ 平成十年四月、東京農業大学厚木キャンパス(農学部農学科・畜産学科)が開設された。

◯ 平成十一年七月五日、進士五十八教授が第十代学長に就任した。

* 平成十一年十一月、相撲部全国制覇、三十二年振りの快挙。第七十七回全日本学生相撲選手権において、団体優勝を成し遂げた。

*平成十二年、厚木キャンパス第一回収穫祭に参加、リーダー公開実施。リーダー部四十名、チアリーダー部二十一名の大応援団で参加した。

* 平成十四年、チアリーダー部、全日本選抜チアリーデイング選手権大会において、初の準決勝進出。

        吹奏楽部、東京都大学吹奏楽コンクールにおいて、金賞受賞。

◯ 平成十六年四月六日、東京農業大学「食と農」の博物館を開設した。

* 平成十六年、チアリーダー部、全日本学生チアリーデイング選手権大会において、初の決勝進出。

◯ 平成十七年四月、東京農業大学第一高等学校中等部を開校した。

◯ 平成十八年四月現在のオール東京農業大学の教育研究体制は、

 東京農業大学、東京情報大学、東京農業大学短期大学部、第一高等学校、第一高等学校中等部、第二高等学校、 

第三高等学校、成人学校の八つの学校を有する大スケールに発展している。

 平成十八年三月にはオール東京農業大学で総数二一、〇八四名の卒業生を送り出した。

 東京農業大学は、世田谷キャンパス、厚木キャンパス、オホーツクキャンパスの三キャンパスに次のとおり、 

大学院二研究科十四専攻、六学部二十一学科を有している。 

  大学院・・平成十六年度より十三専攻が〈博士前期課程・後期課程〉、一専攻が〈博士後期課程〉となった。

   農学研究科【農学専攻・畜産学専攻・農芸化学専攻・醸造学専攻・食品栄養学専攻・林学専攻・農業工学専 

           攻・造園学専攻・農業経済学専攻・国際農業開発学専攻・バイオサイエンス専攻・国際バイオ 

            ビジネス学専攻・生物環境調節学専攻〈博士後期課程〉】  

   生物産業学研究科【生物産業学専攻】

  農学部・・バイオセラピー学科、農学科、畜産学科。

  応用生物科学部・・バイオサイエンス学科、生物応用化学科、醸造科学科、栄養科学科〈食品栄養学専攻・管理

               栄養士専攻〉。

  地域環境科学部・・森林総合科学科、生物環境工学科、造園科学科。

  国際食料情報学部・・国際農業開発学科、食糧環境経済学科、国際バイオビジネス学科。

  生物産業学部・・生物生産学科、アクアバイオ学科、食品科学科、産業経営学科。

  短期大学部・・生物生産技術学科、環境緑地学科、醸造学科、栄養学科。

* 平成十八年十一月五日、東京農業大学全学応援団七十五周年記念式典・祝賀会を挙行する。

 東京農業大学全学応援団は東京農業大学の発展を応援しつつ、大学の歴史と共に歩んでいくことになる。